2018年06月29日
矛盾
2018年6月29日の未明、午前1時過ぎに床に入った人の大半は、すっきりと心が晴れないままに、もやもやを抱えながら眠りについたはずである。そして、翌朝、いつもよりかなり遅く目が覚めた私が考えたのは、“フェアプレー”と“賭け”の二つのことについてだった。
“フェアプレー”=ルールを守ること、でないのはルールの変遷を考えればすぐに分かる。例えば、ゴール・キ-パーへのパスを手でキャッチすることの禁止は、それ以前のルールを守ってプレーしていたにもかかわらず、サッカーにとって不適切と考えられるようになりルール化された。ルールに従ってプレーしていても、フェアプレーではない、あるいはサッカーの本質に反すると考えられるようになったからだろう。
私は、“フェアプレー”とは、サッカーの本質と対戦相手を尊重(リスペクト)することだろうと考える。サッカーの本質とは、『全力で相手ゴールを奪いにいき、必死になって自分のゴールを守る』ことだと思う。このことなしに、そもそもサッカーは成り立たないのは自明のことだ。しかし、このサッカーの本質を、一定の条件下では軽視または無視しても許されるのだというのが、西野ジャパンが一致団結して取った行動の意味するところであった。
さらに、試合時間の残り10分間、日本代表が戦っていた相手は、その時対戦していたポーランド代表チームではなかった。セネガルまたはコロンビア、またはその両チームとの戦いに神経を集中していた。対戦相手のポーランドをリスペクトし、全力でポーランドに勝つことを目指してプレーしなかったということも、私には“フェアプレー”とは対極の行動だと感じられた。
“フェアプレー”の精神とは対極のプレーをすることによって、“フェアプレー・ポイント”で上回り、決勝トーナメント進出を手にした。なんという“矛盾”。
『サッカーには人生のすべてがある』と言ったのは、長い間イギリスのエリザベス女王だと思っていたが、どうやらD・クラマー氏のようだ。人生に“矛盾”は、つきものだ。“矛盾”を拒絶し、“矛盾”と格闘するのが人生の青年期であり、“矛盾”を受け入れるのでないが、“矛盾”とともに生きていくのが大人になることであるなら、日本のサッカーも大人になったと思う。この試合を美化したり、釈明したりすることなく、今後何十年にもわたって、少なくとも苦い思いとともにこの試合を振り返り続けるのが、サッカーを愛する私たちの責務だと思う。
もう一つ、“賭け”について。日本代表が時間つぶしに出た時、0-1で終われば決勝トーナメント進出が決まっていたわけではなかった。セネガルが1-1に追いつけば、日本の目論見は泡と消える。西野監督は、保証されていない未来(未来は、常に保証されていない)に“賭け”たのだ。いくらデータを集めても未来が確定されることはない。偶然が左右しかねない未来に自らを“賭け”たのだ。そして、その“賭け”に勝った。
ロジェ・カイヨワは、その著書『遊び』の中で、“遊び”を4種類に分類した。アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(眩暈)。サッカーの本質は“遊び”であることは、誰もが認めるところである。大半の人は、カイヨワ流に分類すると、サッカーはアゴン(競争)の要素の強い“遊び”だと考えるだろうが、西野監督はそこにアレア(偶然)の要素を前面に出した10分間を選択したのだった。
素晴らしい。“賭け”に勝ったことではない。自分の力で“賭け”に勝つことはできない。“賭け”とは、偶然に身を任すことだからである。素晴らしいのは、世界で32人しか監督として出場できないプロフェッショナル中のプロフェッショナルの監督である西野氏が、最後の最後に選択したのが、偶然に身を任せることであった、そのことである。
まさに、サッカーの本質を“遊び”と看破した凄い監督である。
“フェアプレー”=ルールを守ること、でないのはルールの変遷を考えればすぐに分かる。例えば、ゴール・キ-パーへのパスを手でキャッチすることの禁止は、それ以前のルールを守ってプレーしていたにもかかわらず、サッカーにとって不適切と考えられるようになりルール化された。ルールに従ってプレーしていても、フェアプレーではない、あるいはサッカーの本質に反すると考えられるようになったからだろう。
私は、“フェアプレー”とは、サッカーの本質と対戦相手を尊重(リスペクト)することだろうと考える。サッカーの本質とは、『全力で相手ゴールを奪いにいき、必死になって自分のゴールを守る』ことだと思う。このことなしに、そもそもサッカーは成り立たないのは自明のことだ。しかし、このサッカーの本質を、一定の条件下では軽視または無視しても許されるのだというのが、西野ジャパンが一致団結して取った行動の意味するところであった。
さらに、試合時間の残り10分間、日本代表が戦っていた相手は、その時対戦していたポーランド代表チームではなかった。セネガルまたはコロンビア、またはその両チームとの戦いに神経を集中していた。対戦相手のポーランドをリスペクトし、全力でポーランドに勝つことを目指してプレーしなかったということも、私には“フェアプレー”とは対極の行動だと感じられた。
“フェアプレー”の精神とは対極のプレーをすることによって、“フェアプレー・ポイント”で上回り、決勝トーナメント進出を手にした。なんという“矛盾”。
『サッカーには人生のすべてがある』と言ったのは、長い間イギリスのエリザベス女王だと思っていたが、どうやらD・クラマー氏のようだ。人生に“矛盾”は、つきものだ。“矛盾”を拒絶し、“矛盾”と格闘するのが人生の青年期であり、“矛盾”を受け入れるのでないが、“矛盾”とともに生きていくのが大人になることであるなら、日本のサッカーも大人になったと思う。この試合を美化したり、釈明したりすることなく、今後何十年にもわたって、少なくとも苦い思いとともにこの試合を振り返り続けるのが、サッカーを愛する私たちの責務だと思う。
もう一つ、“賭け”について。日本代表が時間つぶしに出た時、0-1で終われば決勝トーナメント進出が決まっていたわけではなかった。セネガルが1-1に追いつけば、日本の目論見は泡と消える。西野監督は、保証されていない未来(未来は、常に保証されていない)に“賭け”たのだ。いくらデータを集めても未来が確定されることはない。偶然が左右しかねない未来に自らを“賭け”たのだ。そして、その“賭け”に勝った。
ロジェ・カイヨワは、その著書『遊び』の中で、“遊び”を4種類に分類した。アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(眩暈)。サッカーの本質は“遊び”であることは、誰もが認めるところである。大半の人は、カイヨワ流に分類すると、サッカーはアゴン(競争)の要素の強い“遊び”だと考えるだろうが、西野監督はそこにアレア(偶然)の要素を前面に出した10分間を選択したのだった。
素晴らしい。“賭け”に勝ったことではない。自分の力で“賭け”に勝つことはできない。“賭け”とは、偶然に身を任すことだからである。素晴らしいのは、世界で32人しか監督として出場できないプロフェッショナル中のプロフェッショナルの監督である西野氏が、最後の最後に選択したのが、偶然に身を任せることであった、そのことである。
まさに、サッカーの本質を“遊び”と看破した凄い監督である。
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15:57
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2018年06月21日
油断あるいは過信、もしくは焦り
ロシアの大地に“神風”が吹いた時、私は10人ほどの仲間といっしょに、市内某所の27畳の和室に置かれた大型スクリーンにプロジェクターから映し出された赤いカードがレフェリーのポケットから取り出され、高々と示される映像を観ながら、一瞬の思考停止に陥っていた。えっ、一発退場とペナルティー・キック??
現実に起こったことの意味を考えてみるのに、私の鈍い頭では一日以上の時間が必要だった。6月21日(木)の時点でいくつか整理してまとめておこうと思った。
ニュース番組やワイドショーを見る限りでは、海外でも驚きの結果として報じられている。ほぼ90分間、10人を相手にして戦った結果の勝利でも、たいへんな驚きなのか。確かに、4年前に同じく10人を相手にしてギリシアに勝ちきれなかった時よりは進歩したのかもしれない。
試合前には、あれほど映像やインタビューで露出していた本田が、試合後ほとんどまったく登場しなくなった。変わって、当然のことながら大迫に関する情報があふれだした。私は喜ばしいことだと思う。試合のMOMは、誰が見ても大迫だろうからだというだけでなく、日本代表チームのシンボルというか、中心というか、ゴールが期待される頼られるべき存在としてセンターフォワードの選手が取り上げられるのは、いつ以来、誰以来なのだろうと思い返してみても、なかなか名前が出てこない。ここ最近はずっと、ずっと本田であり、香川であり、その前は中田英寿であり、中村俊介などMFだったのではないか。
ただし、ようやく誕生したヒーローは、世論によって持ち上げられ、当人の意志にかかわりなく思い責任を背負わされてしまう。大迫にそれを引き受けるだけの覚悟と精神力が備わっていることを心から願う。
西野監督の勝負師としての感覚には感服せざるをえない。いくらスタッフが豊富なデータを収集し監督に提供したとしても、最終判断は監督がせざるをえない。スタート・メンバーに香川・乾・柴崎の名が連なっているのを見た時、私は、拮抗したゲーム展開に持ち込めた時、誰を切り札として途中出場させるのかと考えてしまった。リードできた時は、チームを安定させるために、岡崎・山口・本田らを使えるとは思ったが。
西野監督は違った。先制攻撃を仕掛けたのだ。ワールドカップ初戦、前監督を更迭して、チーム作りの時間がない中で、初戦敗れると決勝トーナメント進出が絶望的になる、そんな試合に監督生命をかけて攻撃的布陣を決断した。根拠となるデータや理論はあったろうが、最後の判断は“賭け”としか思えない。そして、その“賭け”に勝った。元日本代表監督の岡田氏は、『サッカーに正解はない。』と新聞に書いていた。正解がないからこそ、結果が問われるのである。
コロンビアのペケルマン監督が、10人になった後、攻撃の中心選手をボランチの選手に交替させた。これで、コロンビアも落ち着いた。私は、監督のこの選手交代をさすがだなと感心した。この試合を勝ち点1で良しとし、一次リーグ勝ち点最低5で勝ちあがる戦略に変更したのかと思った。
ところが、二人目の交代がハメス・ロドリゲスだった。10人でもやはり勝ち点3を取りに来るのかと思い直していたところ、交代出場して1分も経たないうちに、私はハメスの体が重い、キレが鈍いように思うとテレビ観戦の仲間に言った。テレビ解説をしていた岡田氏も、私から少し遅れて同じように話していた。コロンビアの監督は、日本を過小評価したのか、その時のハメスでもゴールできると思ってしまったのだろう。あるいは、ハメスを出場させずに勝ち点1または0に終わった時の、コロンビア国民の世論を恐れたのか、ハメスを出場させろという上からの指示があったのか、などと邪推させてしまうほど、ハメスの状態は良くなかった。もっと動けるMFかDFを入れ、ボールを奪ってからのカウンター攻撃を狙ったほうが、日本にとっては脅威になったように思った。
日本時間6月19日(火)午後11時過ぎ、隣接する回転寿司店が閉店したころ、私たちは日本勝利という予想もしなかった結果に戸惑いながらも喜びながら、近所迷惑にならないようにひっそりと家路についた。そのころ、500㎞離れた渋谷の交差点では、DJポリスが押し寄せる大群衆をさばいていた。同じ時、たぶん地球の反対側では、黄色いシャツを着た大群衆が悲嘆にくれていたに違いない。
現実に起こったことの意味を考えてみるのに、私の鈍い頭では一日以上の時間が必要だった。6月21日(木)の時点でいくつか整理してまとめておこうと思った。
ニュース番組やワイドショーを見る限りでは、海外でも驚きの結果として報じられている。ほぼ90分間、10人を相手にして戦った結果の勝利でも、たいへんな驚きなのか。確かに、4年前に同じく10人を相手にしてギリシアに勝ちきれなかった時よりは進歩したのかもしれない。
試合前には、あれほど映像やインタビューで露出していた本田が、試合後ほとんどまったく登場しなくなった。変わって、当然のことながら大迫に関する情報があふれだした。私は喜ばしいことだと思う。試合のMOMは、誰が見ても大迫だろうからだというだけでなく、日本代表チームのシンボルというか、中心というか、ゴールが期待される頼られるべき存在としてセンターフォワードの選手が取り上げられるのは、いつ以来、誰以来なのだろうと思い返してみても、なかなか名前が出てこない。ここ最近はずっと、ずっと本田であり、香川であり、その前は中田英寿であり、中村俊介などMFだったのではないか。
ただし、ようやく誕生したヒーローは、世論によって持ち上げられ、当人の意志にかかわりなく思い責任を背負わされてしまう。大迫にそれを引き受けるだけの覚悟と精神力が備わっていることを心から願う。
西野監督の勝負師としての感覚には感服せざるをえない。いくらスタッフが豊富なデータを収集し監督に提供したとしても、最終判断は監督がせざるをえない。スタート・メンバーに香川・乾・柴崎の名が連なっているのを見た時、私は、拮抗したゲーム展開に持ち込めた時、誰を切り札として途中出場させるのかと考えてしまった。リードできた時は、チームを安定させるために、岡崎・山口・本田らを使えるとは思ったが。
西野監督は違った。先制攻撃を仕掛けたのだ。ワールドカップ初戦、前監督を更迭して、チーム作りの時間がない中で、初戦敗れると決勝トーナメント進出が絶望的になる、そんな試合に監督生命をかけて攻撃的布陣を決断した。根拠となるデータや理論はあったろうが、最後の判断は“賭け”としか思えない。そして、その“賭け”に勝った。元日本代表監督の岡田氏は、『サッカーに正解はない。』と新聞に書いていた。正解がないからこそ、結果が問われるのである。
コロンビアのペケルマン監督が、10人になった後、攻撃の中心選手をボランチの選手に交替させた。これで、コロンビアも落ち着いた。私は、監督のこの選手交代をさすがだなと感心した。この試合を勝ち点1で良しとし、一次リーグ勝ち点最低5で勝ちあがる戦略に変更したのかと思った。
ところが、二人目の交代がハメス・ロドリゲスだった。10人でもやはり勝ち点3を取りに来るのかと思い直していたところ、交代出場して1分も経たないうちに、私はハメスの体が重い、キレが鈍いように思うとテレビ観戦の仲間に言った。テレビ解説をしていた岡田氏も、私から少し遅れて同じように話していた。コロンビアの監督は、日本を過小評価したのか、その時のハメスでもゴールできると思ってしまったのだろう。あるいは、ハメスを出場させずに勝ち点1または0に終わった時の、コロンビア国民の世論を恐れたのか、ハメスを出場させろという上からの指示があったのか、などと邪推させてしまうほど、ハメスの状態は良くなかった。もっと動けるMFかDFを入れ、ボールを奪ってからのカウンター攻撃を狙ったほうが、日本にとっては脅威になったように思った。
日本時間6月19日(火)午後11時過ぎ、隣接する回転寿司店が閉店したころ、私たちは日本勝利という予想もしなかった結果に戸惑いながらも喜びながら、近所迷惑にならないようにひっそりと家路についた。そのころ、500㎞離れた渋谷の交差点では、DJポリスが押し寄せる大群衆をさばいていた。同じ時、たぶん地球の反対側では、黄色いシャツを着た大群衆が悲嘆にくれていたに違いない。
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2018年06月19日
キックオフまで11時間
日本の初戦が少しずつ近づいてきた。監督の交代や選手の選考を見ていて、こんなに自分の気持ちが盛り上がってこないワールドカップは初めてだなと冷めた感覚でいる自分が不思議なくらいだった。開幕戦のロシア対サウジアラビア戦が大差の結果だったので、相変わらず全然関心が高まらなかったが、その後の試合がどれも一次リーグとは思えないほどの真剣勝負になってきたので、私の気分はうれしくなるほど盛り上がってきた。
いよいよ我が代表の初戦を迎えるのだが、そのことを考えるとなぜかまた気分が冷めてくる。なぜなんだ。
なんかチグハグなのだ。いろいろな情報に接しているわけではないので、私の勘違いもあるのかもしれないが、例えば、選手選考前には本田(以下も敬称略)や香川が選考されるかということが話題になっていたが、今やテレビで流れてくる映像やインタビューは本田、香川が中心だ。選考されるかどうかが話題になっていた選手がチームの中心なのか。選考されないかもしれないと思われていた選手に期待が集まっているのか。メディアもなんか変だなあ。
4年前のブラジル大会の反省で、ハリルを監督に据え、“個の強化”に取り組み、“デュエルの強さ”を目指して強化してきたと思っていたのに、西野監督は“チーム一体となった守備”を表明している。それは、強くなった個の力に基づいたチーム守備なのか、個の力が不足しているからのチーム守備なのか、はっきりしないなあ。しかし、個の力がレベル・アップしたのなら、監督を交代する意味はないよな。どうなんだろう。
監督交代の時、「勝つ可能性を高めるため」と言っていたように覚えているが、私が望むのは、可能性ではなくて、勝ったという結果である。アマチュアチームではないのだから、日本中のサポーターに約束すべきは、可能性ではなくて成果ではないですか。万が一、一次リーグで敗退した時、「しかし、突破の可能性は、前監督の時より高まっていたでしょう」と、言うのだろうか。なんかおかしいな。
最近は、西野監督に“秘策”があるようなことも聞こえてくる。“秘策”に効果をもたらす基盤が何なのか、なぜ伝えてくれないのだろう。“秘策”しか頼るものがないのか、と勘繰ってしまう私は根性が曲がっているのかもしれないと、自己嫌悪に陥ってしまうほどだ。
アイスランドやメキシコは凄かった。自分らしさ、チームのアイデンティティを保ち、しかも相手チームへの対策(=秘策)をチーム全員で共通理解しながら、責任を持って自分の役割を果たそうという強い意志が表情や体全体の雰囲気から伝わってくる。日本代表もあんな試合を見せてくれたらなあ。
どんなメンバーで初戦に臨むのだろうか。私の予想は次のメンバーである。私の望むメンバーではない。西野監督が選ぶメンバーの予測である。システムは、4-2-3-1。GKは、川島。DFは、右から酒井高・吉田・槙野・長友、守備的MFに山口・長谷部、右に武藤、左に原口、トップ下に本田、トップに大迫、である。途中出場は、乾・香川と岡崎または柴崎である。皆さんの予想はどうですか。
最後にお願いです。私をもう一度燃え上がらせてほしい。『ドーハの悲劇』では落胆の涙を流し、『ジョホールバルの歓喜』では、外に飛び出して大声を上げたくなるのを何とか抑え込んだ、あの激情をもう一度味わわせてほしい。私のためにチーム一丸となって戦ってほしい。兵が命を懸けて戦いに臨むには、将が命を懸けなければいけない。前監督の首を切って戦いに臨むのだから、将である西野監督、田島会長は、キックオフを前にロッカールームで「責任は私たちにある。一次リーグを突破できなかったら、二人ともやめる。」と言明してほしい。その覚悟を示せれば、強敵コロンビアを破ることができる。
さあ、キックオフまで、あと10時間だ。
いよいよ我が代表の初戦を迎えるのだが、そのことを考えるとなぜかまた気分が冷めてくる。なぜなんだ。
なんかチグハグなのだ。いろいろな情報に接しているわけではないので、私の勘違いもあるのかもしれないが、例えば、選手選考前には本田(以下も敬称略)や香川が選考されるかということが話題になっていたが、今やテレビで流れてくる映像やインタビューは本田、香川が中心だ。選考されるかどうかが話題になっていた選手がチームの中心なのか。選考されないかもしれないと思われていた選手に期待が集まっているのか。メディアもなんか変だなあ。
4年前のブラジル大会の反省で、ハリルを監督に据え、“個の強化”に取り組み、“デュエルの強さ”を目指して強化してきたと思っていたのに、西野監督は“チーム一体となった守備”を表明している。それは、強くなった個の力に基づいたチーム守備なのか、個の力が不足しているからのチーム守備なのか、はっきりしないなあ。しかし、個の力がレベル・アップしたのなら、監督を交代する意味はないよな。どうなんだろう。
監督交代の時、「勝つ可能性を高めるため」と言っていたように覚えているが、私が望むのは、可能性ではなくて、勝ったという結果である。アマチュアチームではないのだから、日本中のサポーターに約束すべきは、可能性ではなくて成果ではないですか。万が一、一次リーグで敗退した時、「しかし、突破の可能性は、前監督の時より高まっていたでしょう」と、言うのだろうか。なんかおかしいな。
最近は、西野監督に“秘策”があるようなことも聞こえてくる。“秘策”に効果をもたらす基盤が何なのか、なぜ伝えてくれないのだろう。“秘策”しか頼るものがないのか、と勘繰ってしまう私は根性が曲がっているのかもしれないと、自己嫌悪に陥ってしまうほどだ。
アイスランドやメキシコは凄かった。自分らしさ、チームのアイデンティティを保ち、しかも相手チームへの対策(=秘策)をチーム全員で共通理解しながら、責任を持って自分の役割を果たそうという強い意志が表情や体全体の雰囲気から伝わってくる。日本代表もあんな試合を見せてくれたらなあ。
どんなメンバーで初戦に臨むのだろうか。私の予想は次のメンバーである。私の望むメンバーではない。西野監督が選ぶメンバーの予測である。システムは、4-2-3-1。GKは、川島。DFは、右から酒井高・吉田・槙野・長友、守備的MFに山口・長谷部、右に武藤、左に原口、トップ下に本田、トップに大迫、である。途中出場は、乾・香川と岡崎または柴崎である。皆さんの予想はどうですか。
最後にお願いです。私をもう一度燃え上がらせてほしい。『ドーハの悲劇』では落胆の涙を流し、『ジョホールバルの歓喜』では、外に飛び出して大声を上げたくなるのを何とか抑え込んだ、あの激情をもう一度味わわせてほしい。私のためにチーム一丸となって戦ってほしい。兵が命を懸けて戦いに臨むには、将が命を懸けなければいけない。前監督の首を切って戦いに臨むのだから、将である西野監督、田島会長は、キックオフを前にロッカールームで「責任は私たちにある。一次リーグを突破できなかったら、二人ともやめる。」と言明してほしい。その覚悟を示せれば、強敵コロンビアを破ることができる。
さあ、キックオフまで、あと10時間だ。
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2018年06月18日
テクノロジー
ワールドカップが始まった。ワールドカップのことを知ったのは、いつのことだったろうか。
初めてテレビでワールドカップの試合を観たのは覚えている。高校2年生の時だったから1971年だ。その年にワールドカップは開催されていない。その通り。前年のワールドカップを「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組がサンテレビで放送されていたのだ。和泉山脈にさえぎられて和歌山にサンテレビの電波は届かない。新聞のテレビ放送欄を見ながら毎週情けない思いをしていたが、ついに決心した。泉南市の母方の親戚の家にテレビを見せてもらいに行くことにした。放送は、月曜日夜10時から確か45分間だったと思う。放送が終わってから、家に帰る電車がないから泊めてもらうしかない。翌日は学校がある。何試合も見せてもらいに行くことはできない。どの試合を見せてもらいに行くか、熟慮の末、準決勝西ドイツ対イタリアの延長戦を見せてもらいに行った。ベッケンバウアーが肩を脱臼して包帯姿も痛々しく、しかし、端正な姿からは想像できないゲルマン魂を発揮して最後まで戦った、あの伝説の一戦だ。親戚の家の人は、もちろんワールドカップには無関心だった。「よく来たなあ」というのは、多分あきれて言ったのだろうと思った。翌朝始発電車でも学校に少し遅刻した。高校時代遅刻したのは、その時だけだった。
1978年のワールドカップが近づいてきた時、私はまだ高校の非常勤講師だった。家庭用ビデオ機器が発売されていた。VHS方式とβ方式がしのぎを削っていた。私は、テープの嵩が小さいβ方式の東芝製品を買った。20万円ほどした。近所ではどこの家にもなかった。地球の裏側で、軍事政権下、マシンガンに守られながら行われているアルゼンチン対オランダの決勝戦を夜中にライブで初めて観た。狭い家では、私が音量を絞って声も出さずにテレビを見ているすぐ横で家族は眠っていた。
そのワールドカップで今大会、ゴールライン・テクノロジーとVARが導入された。早速、フランス対オーストラリア戦で、効果というか、決定的な影響を発揮したのは、周知のとおりだ。ルールがますますわからなくなっている。私がそのテクノロジーを採用した試合でレフェリーをすることは当然ないのだが、ルールとして誰か教えてください。PKかもしれない微妙なシーンからプレーが続き、反対側のゴールに明らかな得点が決まったらどうなるのでしょう。VARでその前のプレーがPKだと判定されたら、その後のゴールは取り消されるのでしょうか。
そこまで“正確”な判定が、人間のプレーの判定に必要なのか。“referee”は、「調停者、仲裁人」と辞書にはある。“judge”(裁判官)ではない。スペイン語の“arbitro”も「調停者、仲裁者」とある。競技規則(ルール)に基づいて両チームの調停・仲裁をするのが本義だ。ルールを厳格に適用すべきjudgeとは、質が違うのではないか。
ルールを変えたらどうだろう。原稿競技規則では、第10条に「…ボールの全体がゴールラインを越えたとき…」得点とある。この第10条を『…ボールの全体が明らかにゴールラインを越えたと主審が判断したとき』得点とすれば、私にとって最大の遊びであり、喜びであるサッカーの本質を、テクノロジーでがんじがらめにされた瀕死の状態から簡単に救い出せるのではないか。ゴールライン・テクノロジーやVARという最新のテクノロジーを導入してまで、ルールの厳格な適用がサッカー、というよりスポーツに必要だとは私は思わない。今、ソラティオーラでサッカーを楽しんでくれている子どもたちは、大きくなったら自分もVARが導入されている大会でプレーしたいと夢見るようになるのだろうか? なんかAIに支配されている未来の社会を想像してしまって、怖くなる私は齢をとったのだろう。ワールドカップがやってくるたびに、私が40年以上前に大阪までテレビ放送を観に行ったことを懐かしく思い出しているように、今の子どもたちは、2066年のワールドカップを迎える時、ゴールライン・テクノロジーやVARが初めて導入されたロシア大会をどのように思い出すのだろう。
初めてテレビでワールドカップの試合を観たのは覚えている。高校2年生の時だったから1971年だ。その年にワールドカップは開催されていない。その通り。前年のワールドカップを「三菱ダイヤモンドサッカー」という番組がサンテレビで放送されていたのだ。和泉山脈にさえぎられて和歌山にサンテレビの電波は届かない。新聞のテレビ放送欄を見ながら毎週情けない思いをしていたが、ついに決心した。泉南市の母方の親戚の家にテレビを見せてもらいに行くことにした。放送は、月曜日夜10時から確か45分間だったと思う。放送が終わってから、家に帰る電車がないから泊めてもらうしかない。翌日は学校がある。何試合も見せてもらいに行くことはできない。どの試合を見せてもらいに行くか、熟慮の末、準決勝西ドイツ対イタリアの延長戦を見せてもらいに行った。ベッケンバウアーが肩を脱臼して包帯姿も痛々しく、しかし、端正な姿からは想像できないゲルマン魂を発揮して最後まで戦った、あの伝説の一戦だ。親戚の家の人は、もちろんワールドカップには無関心だった。「よく来たなあ」というのは、多分あきれて言ったのだろうと思った。翌朝始発電車でも学校に少し遅刻した。高校時代遅刻したのは、その時だけだった。
1978年のワールドカップが近づいてきた時、私はまだ高校の非常勤講師だった。家庭用ビデオ機器が発売されていた。VHS方式とβ方式がしのぎを削っていた。私は、テープの嵩が小さいβ方式の東芝製品を買った。20万円ほどした。近所ではどこの家にもなかった。地球の裏側で、軍事政権下、マシンガンに守られながら行われているアルゼンチン対オランダの決勝戦を夜中にライブで初めて観た。狭い家では、私が音量を絞って声も出さずにテレビを見ているすぐ横で家族は眠っていた。
そのワールドカップで今大会、ゴールライン・テクノロジーとVARが導入された。早速、フランス対オーストラリア戦で、効果というか、決定的な影響を発揮したのは、周知のとおりだ。ルールがますますわからなくなっている。私がそのテクノロジーを採用した試合でレフェリーをすることは当然ないのだが、ルールとして誰か教えてください。PKかもしれない微妙なシーンからプレーが続き、反対側のゴールに明らかな得点が決まったらどうなるのでしょう。VARでその前のプレーがPKだと判定されたら、その後のゴールは取り消されるのでしょうか。
そこまで“正確”な判定が、人間のプレーの判定に必要なのか。“referee”は、「調停者、仲裁人」と辞書にはある。“judge”(裁判官)ではない。スペイン語の“arbitro”も「調停者、仲裁者」とある。競技規則(ルール)に基づいて両チームの調停・仲裁をするのが本義だ。ルールを厳格に適用すべきjudgeとは、質が違うのではないか。
ルールを変えたらどうだろう。原稿競技規則では、第10条に「…ボールの全体がゴールラインを越えたとき…」得点とある。この第10条を『…ボールの全体が明らかにゴールラインを越えたと主審が判断したとき』得点とすれば、私にとって最大の遊びであり、喜びであるサッカーの本質を、テクノロジーでがんじがらめにされた瀕死の状態から簡単に救い出せるのではないか。ゴールライン・テクノロジーやVARという最新のテクノロジーを導入してまで、ルールの厳格な適用がサッカー、というよりスポーツに必要だとは私は思わない。今、ソラティオーラでサッカーを楽しんでくれている子どもたちは、大きくなったら自分もVARが導入されている大会でプレーしたいと夢見るようになるのだろうか? なんかAIに支配されている未来の社会を想像してしまって、怖くなる私は齢をとったのだろう。ワールドカップがやってくるたびに、私が40年以上前に大阪までテレビ放送を観に行ったことを懐かしく思い出しているように、今の子どもたちは、2066年のワールドカップを迎える時、ゴールライン・テクノロジーやVARが初めて導入されたロシア大会をどのように思い出すのだろう。
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2018年06月12日
素人考え
今、6月12日午後2時半、ワールドカップ開幕を直前に控えた最後のテストマッチ、パラグアイ戦の当日(シンガポールでは世紀の会談の真っ最中)に書いている。
前の試合、スイス戦の後、あるスポーツ新聞のインターネットの記事には次のようにある。
『就任から2戦2敗となった西野朗監督(63)はそれでも前向きだった。選手たちのプレーが求める水準に達しているのか?と聞かれると「非常にいいと思います。選手たちのコンディションは躍動感がありますし、連動して攻守に高い水準のパフォーマンス。グループとしてのパフォーマンスが若干取れていない。フィニッシュのところの課題は残しましたけど、守備から攻撃のスイッチ、攻撃から守備の連動性は、求めているところまできている」と評価した。W杯まで時間がなく、残る国際親善試合は12日パラグアイ戦(インスブルック)の1試合だけ。危機感は? と問われると「毎試合、毎試合選手とトライして、チーム、私自身もマイナスのイメージはまったくもっていませんし、いいチャレンジをしていると思います。チャレンジしていく、前向きにとらえられる状況。チームとして危機感というところは、まったく感じてはいません」と断言した。』
小学校の体育の授業でサッカーを始めて以来50年近くになるので、私自身はサッカーの素人とは違うと自負してきた部分があったが、あのスイス戦を終えての私の感想と日本代表チームの監督の認識の間にこれほどの差があるとは、私は自分の長年の経験から来る自分の見立ての確信が大きな音を立てて崩れていく喪失感を禁じ得ない。私が培ってきたサッカー観は何だったのかと。
1点目の失点シーン。大迫(選手名敬称略)が負傷のため交代した直後だった。私が長年監督を務めてきた底辺レベルの高校生チームでは、「集中しろ!」と大声で指示する場面だなと思って見ていた。右サイドバックの酒井が、俊足の相手選手にチャレンジして突破された。カバーすべき吉田との距離があんなにある状況でなぜ飛び込まなければいけなかったのか、レベルの低いC級コーチである私にはまったく理解できなかった。何回あのシーンを見直しても、ドイツでプレーしているトップ・レベルの選手が何を考えていたのか、今もってわからない。PKを与えた吉田のプレーが云々されているが、私には、酒井のチャレンジしようとする判断と、酒井と吉田の連携が問題だとしか思えない。
“神は細部に宿る。”本番直前にしての連携不足、このワン・プレーが現在のチーム状況を象徴しているのではないか。しかし、上記記事に曰く“連動して攻守に高い水準のパフォーマンス。…攻撃から守備の連動性は、求めているところまできている。”
2点目の失点シーン。攻撃のCKの時、私が監督をしていた底辺レベルのチームでは、二人CBが相手ゴール前に上がる時には、必ずカウンターを受けないように、プレーを切って終われと毎回大声を出していた。そして、CKからボールがサイドに流れていって、相手チームのボールになろうかという時に、吉田、槙野の二人のCBが相手ゴール・エリア付近で歩いている。さすが日本代表ともなると、味方がボールを奪い返して、もう一度クロスが来るのを待つということなのかなと思っていたら、そこからボールをつながれて、CBが二人とも戻り切れないうちに失点してしまった。
ワールドカップ本番では、対戦する3チームはいずれもFIFAランクが日本より上。安定した守備から攻撃をするのではなかったのか。そんな記事をどこかで読んだ気もしていたのだか、私の勘違いか。そして、上記記事に曰く、西野監督は“チームとして危機感というところは、まったく感じてはいません。”
底辺コーチの私は、危機感しか持つことができないでいる。50年にわたる経験から養われた私のサッカー観は、どこでどう間違ったのか。どうすれば、あの試合の中に西野監督と同じ光景を見ることができるのか、次のC級コーチ・リフレッシュ研修の時に、誰か教えてほしいと痛切に思う。
今夜のパラグアイ戦が終わった後、その結果にかかわらず、私は西野監督にこう言ってもらいたい。「本番を見ていてほしい。テストマッチの出来不出来は大きな問題ではない。私は突然解任された前監督の後を引き継いだ。前監督の無念を思う時、私は可能性を高めただけでは許されないことは十分に分かっている。本番の結果を見ていてほしい。それがすべてである。もし、結果が伴わなかったとき、私は会長とともに責任を取って、サッカー界から足を洗う。」
そして、本番が終わった後晴れ晴れとした表情で、私にも「そんな見方しかできないから、底辺レベルのコーチのままなんだよ。」と、言い放ってもらいたい。そうしたら、私は「本当にごめんなさい。」心の底から謝ります。
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15:37
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2018年06月08日
大きく育っていく源
バレンシアアカデミー和歌山校が開校して早くも二か月が過ぎました。アカデミー生と保護者の皆さんの日々のご理解とご協力に感謝しています。
開校二か月を経過した今、ここまでを振り返り、これからの方向を少し考えてみました。
私たちが開校に当たって、基本方針としたところは、次の点です。
①どこまでも広くて、深くて、高いサッカーの世界を子どもたちに伝えたい。
②その具体的なイメージとして参考にすべきモデルを、“スペイン・サッカー”とする。
③そんな“世界”を夢に見て、夢の先へ飛び出していこうとする積極的な意欲を持ち、課題に自分から進んで取り組んでいく子どもを育てたい。
④このことは、単にサッカーだけでなく、アカデミー生が人として成長していく過程でもプラスの影響を与えることが出来るはずである。
⑤そのために、ピッチの上のトレーニングだけでなく、情報の提供を含めたパッケージとしてアカデミーを運営していく。
⑥トレーニング・メニューは、サッカーの本質に立脚した内容にする。
◇目指すゴールがある。
◇攻守の切り替えの連続がある。
◇厳しいボールの奪い合いがある。
◇プレーヤーの瞬時の判断が必要である。
⑦トレーニングでは、次の点を重視する。
◇集中の維持が必要な、適度な強度を持った内容にする。
◇順番を待つだけの時間が存在しないメニューをできるだけ多くする。
◇プレーヤーが自ら力を出し切ろうとするように、コーチが声掛けする。
⑧情報提供の一つとして「Vamos a aprender」というアカデミー・ノートを配布していく。
さて、振り返りです。
アカデミー生は、熱心に全力でトレーニングに取り組んでくれています。より成果を高めていくために、要求していきたいのは次の点です。
①アカデミーで取り組んでいることをもっとしっかりと意識して、自分のチームでのトレーニングや試合の時に発揮してもらいたい。具体的には、
◇アカデミーで取り組んでいるターンを使おうとしていますか?
◇アカデミーで要求されているように、激しく厳しくボールを奪いにいっていますか?
◇ゲーム形式の練習や試合の時、ポジションの取り方(右・左・中)をしっかりと意識していますか?
②「Vamos a aprender」に時間をかけて取り組んでいますか。
「これやって提出せんとあかんの?」というアカデミー生がいますが、これは“宿題”ではありません。子どもたちは、学校や習い事で、常に“やらなくてはいけない”ことを押し付けられる状況に置かれています。もちろん、“やらなくてはいけない”ことが必要なこともありますが、子どもの成長にとって気を付けなくてはいけないのは、“やらなくてはいけない”と言われたことだけしていればよい、“やらなくてはいけない”と言われたこと以外はしなくても良いというように、心に刻み付けられていってしまうことです。
コーチが「アカデミー・ノートは、宿題ではないよ」と言うと、「やってきて出さなくても良いのなら、やらないでおこう」と“無意識に”判断してしまう心配はないでしょうか?
保護者の皆さんの中には「学校の宿題と同じだよ、やらなくてはいけないよ」というようなことになっていませんか?
アカデミー・ノートは何なのでしょう? 世の中には、“やらなくてはいけない”こと以外にどんなことがあるのでしょう?
子どもさんと一緒に考えてみてもらえればうれしいです。
開校二か月を経過した今、ここまでを振り返り、これからの方向を少し考えてみました。
私たちが開校に当たって、基本方針としたところは、次の点です。
①どこまでも広くて、深くて、高いサッカーの世界を子どもたちに伝えたい。
②その具体的なイメージとして参考にすべきモデルを、“スペイン・サッカー”とする。
③そんな“世界”を夢に見て、夢の先へ飛び出していこうとする積極的な意欲を持ち、課題に自分から進んで取り組んでいく子どもを育てたい。
④このことは、単にサッカーだけでなく、アカデミー生が人として成長していく過程でもプラスの影響を与えることが出来るはずである。
⑤そのために、ピッチの上のトレーニングだけでなく、情報の提供を含めたパッケージとしてアカデミーを運営していく。
⑥トレーニング・メニューは、サッカーの本質に立脚した内容にする。
◇目指すゴールがある。
◇攻守の切り替えの連続がある。
◇厳しいボールの奪い合いがある。
◇プレーヤーの瞬時の判断が必要である。
⑦トレーニングでは、次の点を重視する。
◇集中の維持が必要な、適度な強度を持った内容にする。
◇順番を待つだけの時間が存在しないメニューをできるだけ多くする。
◇プレーヤーが自ら力を出し切ろうとするように、コーチが声掛けする。
⑧情報提供の一つとして「Vamos a aprender」というアカデミー・ノートを配布していく。
さて、振り返りです。
アカデミー生は、熱心に全力でトレーニングに取り組んでくれています。より成果を高めていくために、要求していきたいのは次の点です。
①アカデミーで取り組んでいることをもっとしっかりと意識して、自分のチームでのトレーニングや試合の時に発揮してもらいたい。具体的には、
◇アカデミーで取り組んでいるターンを使おうとしていますか?
◇アカデミーで要求されているように、激しく厳しくボールを奪いにいっていますか?
◇ゲーム形式の練習や試合の時、ポジションの取り方(右・左・中)をしっかりと意識していますか?
②「Vamos a aprender」に時間をかけて取り組んでいますか。
「これやって提出せんとあかんの?」というアカデミー生がいますが、これは“宿題”ではありません。子どもたちは、学校や習い事で、常に“やらなくてはいけない”ことを押し付けられる状況に置かれています。もちろん、“やらなくてはいけない”ことが必要なこともありますが、子どもの成長にとって気を付けなくてはいけないのは、“やらなくてはいけない”と言われたことだけしていればよい、“やらなくてはいけない”と言われたこと以外はしなくても良いというように、心に刻み付けられていってしまうことです。
コーチが「アカデミー・ノートは、宿題ではないよ」と言うと、「やってきて出さなくても良いのなら、やらないでおこう」と“無意識に”判断してしまう心配はないでしょうか?
保護者の皆さんの中には「学校の宿題と同じだよ、やらなくてはいけないよ」というようなことになっていませんか?
アカデミー・ノートは何なのでしょう? 世の中には、“やらなくてはいけない”こと以外にどんなことがあるのでしょう?
子どもさんと一緒に考えてみてもらえればうれしいです。
Posted by Okuno at
09:32
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