2018年08月09日

バレンシアCFサマークリニック、開催!

7月27日(金)・28日(土)・8月8日(水)の3日にわたって、ソラティオーラ和歌山の選手を対象にして「バレンシアCFサマークリニック」が開催されました。

夏真っ盛りの中で、選手たちはスペインより来日したバレンシアCFのコーチから直接指導を受けるという貴重な機会を無駄にしないよう、とても集中してトレーニングに取り組みました。今回は、小学4年生から中学3年生までの幅広い育成年代がそれぞれのカテゴリーごとにセッションを開いていただきました。

講師のアンデル・ペレスさんの指導は、バレンシアCFの育成指導で一番大切にしている内容を、それぞれの年代に応じて、トレーニング・メニューをアレンジしながら、たいへん分かりやすく選手たちに伝えてくれたように感じました。それは、どの年代にも一貫して次のことでした。

◇時間を無駄に使わずに、早く展開するためには、ボールから遠い足のインサイドでコントロールする。

◇チームでボールを保持するために、それぞれのプレーヤーがパス・コースを多く作れるように、常に動いて良いポジションを取る。


私たちがバレンシアCFのコーチとの15年にわたる交流から学び、ソラティオーラ和歌山の指導のベースにしているのもこれらのことです。この一番大事なことを、「もっと正確に、もっと速く、もっと考えて」プレーできるように、集中して全力で取り組んでいくことが、レベル・アップにつながるただ一つの道だと思います。

クリニックに参加した選手たちだけでなく、私たちコーチにとっても日々のトレーニングのあり方を再確認し、これからの指導に生かしていく決意を新たにした一日でした。










  


Posted by Okuno at 15:50Comments(0)

2018年07月14日

ナイーブにして無邪気


 ワールドカップも残すところ、3位決定戦と決勝戦の2試合のみとなっている。クロアチアのチャンス・メーカーであるモドリッチの、30歳を超えて、あの走力と献身性は今までの選手像にはなかったものだ。片やフランスのエクバペ、19歳にしてイエローカードも平気の時間稼ぎ。あのヒールなプレーは、サッカーの中だけで身に付いたものなのだろうか。
さて、我が日本代表である。これを考え出すと、頭に血が上ってきてちゃんとした文章にならない。齢を取るにつれて、怒りっぽくなるという。私もその傾向が顕著になり始めているとは自覚している。「しかし、まあ、みなさん、聞いてください」と人生幸朗さん(知ってる人は少なくなってしまったでしょうね)のように言いたくなってくる。
 日本代表選手の帰国を報じるテレビ番組欄に『凱旋』とあった。辞書には、凱旋とは「成功を収めて帰ってくること」とある。4試合戦って、1勝2敗1引き分けの結果が成功か。しかも、1勝は、相手が80分以上10人で戦った試合であった。選手たちが必死になって全力で戦ったのは間違いない。問題は、監督、日本サッカー協会、日本サッカー界の空気である。
 西野監督は、ポーランド戦の翌日、選手たちに負けを受け入れる戦い方を指示したことを詫びたという。なんという、ナイーブさ。なぜ、自分の取った作戦を堂々と誇らなかったのか。閉ざされたミーティングの場だったので、心情を吐露したのか。しかし、その内容は私のような底辺レベルのものまで伝わってきている。しかも、まるで美談でもあるかのように。
 そして、西野監督とともにアトランタ・オリンピックを戦った山本氏は、“絶賛すべき選択”と解説していた。なんという無邪気さ。負けている試合で時間稼ぎをするという、そこには対戦相手とともに全力で勝利を競い合うスポーツマンシップのかけらもないと感じた私はおかしいのか。
その西野監督は、当初からの予定だったので、代表監督を辞めるという。なんやねん。「ベルギー戦に敗れた直後、倒れこんで背中で感じた芝生の感触を忘れるな、控え選手用のベンチの居心地の悪さを4年間覚えておけ。」というようなかっこいいことを選手たちに話したと報じられた。自分は、どうやねん。絶対に本意ではなかったであろう、リードされた試合での時間稼ぎや、試合終了直前でのカウンター・アタックから失点での敗戦、その悔しさを4年間覚えておける監督は、西野さん、あなたしかいないでしょう。いくら予定していたとはいえ、今辞任することは無責任だと思う。「疲れた」と西野氏は話したという。その通りだと思う。私たちには想像もつかない重圧があったであろう。しかし、それはワールドカップを戦うどの監督にも言えることではないだろうか。ドイツのレーブ監督は続けると報じられている。それが責任を取るということであろう。辞めさせられるのならともかく、自分から辞任を言い出すとは、重圧に耐えるだけの精神力が足りなかったと言うことだろう。その辞任を受け入れる田嶋会長もどうかしている。西野監督の継続こそが日本のサッカーが階段を一つ上がるために一番可能性のある道ではないですか。私は、それだけがハリル前監督を辞任させた者の責任の取り方だと思う。
 しかし、その精神力の足りなさは、たぶん、西野氏個人の問題ではない。私たち日本サッカー界、あるいは、日本人全体の特徴であるかもしれない。長谷部キャプテンは、「結果の中に真実はある」と言ったと新聞に出ていた。スポーツにおいて大切なのは、過程ではなかったのか。私はそのように教えられてきたし、そのように選手に伝えてきた。私の指導は間違っていたのか。結果が出れば、その結果だけで物事を判断する。良い結果が出ればそれですべてOK。その過程の検証に耐えようともしない。まるで、日本の近現代史を観るような思いである。私たちの国民性であるのかもしれない。
 クロアチアのダリッチ監督「私たちには、絶対にあきらめない国民性がある」と言ったと新聞記事にあった。その国民性は、どのように育まれてきたのだろうか。誰しもが、1990年代のユーゴスラヴィア内戦を思い浮かべるのではないだろうか。
 私たちは、結果からだけで白黒をはっきりさせようとする国民性があるのかもしれない。白黒両方を併せ持つ、または、白黒の矛盾を意識しながら、あるいは葛藤を自覚しながら抱え持ちながら、前に進んでいく精神性を持ち得ていないのかもしれない。
 サッカー批評には、国民性が表れる。そこに、ナイーブにして無邪気な、我が国民性の脆弱性が表れているような気がしてならない。
 もうすぐ、3位決定戦が始まる。
  


Posted by Okuno at 22:17Comments(0)

2018年07月03日

主役

 今、2018年7月3日午前5時20分、ベルギー戦を終えた直後の選手インタビューを見終えたところだ。世界中のサッカー・ファンの皆さんには申し訳ないけど、正直言って試合は後半からしか見ていないので、あまり偉そうなことは言えないけど、現時点での感想を表明しておきたい。

 選手インタビューの中では、長友選手の「悔しい。だけど全部出し切ったので、胸を張って帰る。」と話していたのが印象に残っている。その通り、素晴らしい試合だった。堂々と胸を張って帰ってきてほしい。
 何が素晴らしかったか、それは何よりも選手が主役だったからだ。個々の選手が自分の意志で動きながらも、チームとして連動して、強敵に立ち向かっていた。後半開始直後の2得点。両方とも、ボールのある局面で数的優位を作りながら、近くでサポートしあい、物おじすることのない思い切ったシュート。実力では劣る側の見本のような戦い方だった。これがサッカーだという試合であった。

 しかし、西野監督の中に2点リードするという状況がシミュレーションされていただろうか。選手の交代に時間がかかったのは、それが一因ではなかっただろうか。相手が先に動いたにもかかわらず、本田と山口を投入したのはあまりに型通りではなかったかと感じた。どうでしょうか。

 ベルギーは、やはり強かった。完璧なチームではなく、隙もあったが、それでも強かった。2点リードされた直後は、少し焦りも見えたが、選手交代とともに落ち着いた試合運びに戻り、それは、後半のアディショナル・タイム4分も残り10秒というところでの日本のコーナー・キックからのカウンター・アタックでの決勝点の経過に表れた。
 コーナー・キックのボールをゴール・キーパーがキャッチした瞬間一人の選手が走り出した。そこにキーパーからアンダーハンド・パスが出される。日本の選手も追ったが振り切られた。ベルギー選手のスピードが上がる。ハーフ・ラインに達する頃、前線ではすでにベルギーの選手のほうが人数が多かった。右サイドの選手が中に入り、日本の選手を一人引っ張っていく。その空いた右スペースにもう一人押し上げてくる。全くのフリーだ。そして、グラウンダーのクロス。確かルカク選手がボールに向かって走り、スルーすると、ゴール前には完全にフリーの相手選手がいた。あの場面でスルーできるとは。

 ワールドカップ直前のテストマッチ、スイス戦でもコーナー・キックからの逆襲で失点していた。高い情報処理能力を持っているであろう日本代表チームでは、当然、その時の失点の原因を分析し、対応策も準備していたはずであるのに。デジャ・ビュ? いえ、実際に同じようなシーンがほんの少し前に起こっていたのだ。

 繰り返すが、素晴らしい試合だったと言える。冒頭にも書いたが、長友選手の言葉通りだと納得した。それは、選手が試合の主役だったからだ。サッカーはそうでなくてはいけない。その分、あのポーランド戦は本当に残念だった。そうせざるを得ない状況であったかもしれないが、少なくともスポーツマンシップにのっとった戦い方ではなかった。日本サッカー協会の一員である山本昌邦氏がテレビ放送で話した「素晴らしい、絶賛すべき判断」では決してなかった。

 4試合を通じて、結局1勝2敗1引き分けだった。その1勝は、強敵とは言え、10人を相手にした試合だった。この現実から次の4年間をスタートしなければいけない。西野監督のチーム作りを見てみたい。日本人監督として、根本からどんなチーム作りをしてくれるのか、たいへん楽しみになってきた。

 ワールドカップはまだまだ続くが、日本代表チームのみなさん、本当にお疲れさまでした。底辺レベルの私たちも日本サッカー界の一員として、4年後を、さらにもっと先を見据えて頑張っていきましょう。

 只今、7月3日午前6じ3分です。
  


Posted by Okuno at 06:18Comments(0)

2018年07月01日

羨望

 日本対ポーランドの日本時間深夜の試合から明けた金曜日の昼下がり、テーブルから何気なく立ち上がった瞬間、腰に違和感を覚えて、それがだんだんと鈍い痛みに変わってしまった。原因が、あの試合にあるとは言わないが、何日間か遅い時間の試合を見、たぶんその時の姿勢の悪さと睡眠不足がたまってのことだろうと思う。無理をしてはいけないと思い、決勝トーナメント1回戦は録画放送を見ることにした。世界中のサッカー・ファンのみなさん、すみません。
 私は自分の生まれ育った日本の風土を心から愛しています。しかし、今回ほど、GMT+9の極東の地に生まれたことを悔しく思ったことはありません。

 さて、たった今見終わったフランス対アルゼンチンの録画放送を見た後、一番感じたのは「羨ましい」ということでした。
 メッシのパスの物凄さ。ピンポイントで、しかもぴったりのタイミングで受け手に渡る。あのパスなら目をつぶっていてもコントロールできると思わせるほどのものでした。居合抜きの達人を思わせるようなマスチェラーノのボール奪取、凄い。リボンの騎士に出てくる白馬の王子様のような神出鬼没のグリーズマン、黒いペガサスのごときエムバペの若々しい澄んだ瞳。その他、誰も彼も素晴らしい千両役者たちの真剣勝負。
 
 これがサッカーだ。主役は選手たちだ。決して、監督ではない。こんな代表チームを持った国のサポーターたちが本当に羨ましい。決勝トーナメント進出を決めて、監督が選手に謝らなければいけない代表チームを持つことは、恥ずかしい。世論では、あの戦い方に賛否両論あるようですが、いわゆるサッカー関係者のコメントからはっきりとした否定的な意見は聞こえてきません。日本中の子どもたちに何と説明すれば良いのでしょう。私は、自分のクラブの子どもたちにどう言えば良いのか、いまだに分かりません。西野監督、次は選手が主役になる試合を見せてください。

 というわけで、今回のブログは短めです。まだ、ウルグアイ対ポルトガルの録画放送は見ていません。まだまだワールドカップは続くのですね。
  


Posted by Okuno at 19:02Comments(0)

2018年06月29日

矛盾

 2018年6月29日の未明、午前1時過ぎに床に入った人の大半は、すっきりと心が晴れないままに、もやもやを抱えながら眠りについたはずである。そして、翌朝、いつもよりかなり遅く目が覚めた私が考えたのは、“フェアプレー”と“賭け”の二つのことについてだった。

 “フェアプレー”=ルールを守ること、でないのはルールの変遷を考えればすぐに分かる。例えば、ゴール・キ-パーへのパスを手でキャッチすることの禁止は、それ以前のルールを守ってプレーしていたにもかかわらず、サッカーにとって不適切と考えられるようになりルール化された。ルールに従ってプレーしていても、フェアプレーではない、あるいはサッカーの本質に反すると考えられるようになったからだろう。
 私は、“フェアプレー”とは、サッカーの本質と対戦相手を尊重(リスペクト)することだろうと考える。サッカーの本質とは、『全力で相手ゴールを奪いにいき、必死になって自分のゴールを守る』ことだと思う。このことなしに、そもそもサッカーは成り立たないのは自明のことだ。しかし、このサッカーの本質を、一定の条件下では軽視または無視しても許されるのだというのが、西野ジャパンが一致団結して取った行動の意味するところであった。
 さらに、試合時間の残り10分間、日本代表が戦っていた相手は、その時対戦していたポーランド代表チームではなかった。セネガルまたはコロンビア、またはその両チームとの戦いに神経を集中していた。対戦相手のポーランドをリスペクトし、全力でポーランドに勝つことを目指してプレーしなかったということも、私には“フェアプレー”とは対極の行動だと感じられた。
 “フェアプレー”の精神とは対極のプレーをすることによって、“フェアプレー・ポイント”で上回り、決勝トーナメント進出を手にした。なんという“矛盾”。

 『サッカーには人生のすべてがある』と言ったのは、長い間イギリスのエリザベス女王だと思っていたが、どうやらD・クラマー氏のようだ。人生に“矛盾”は、つきものだ。“矛盾”を拒絶し、“矛盾”と格闘するのが人生の青年期であり、“矛盾”を受け入れるのでないが、“矛盾”とともに生きていくのが大人になることであるなら、日本のサッカーも大人になったと思う。この試合を美化したり、釈明したりすることなく、今後何十年にもわたって、少なくとも苦い思いとともにこの試合を振り返り続けるのが、サッカーを愛する私たちの責務だと思う。

 もう一つ、“賭け”について。日本代表が時間つぶしに出た時、0-1で終われば決勝トーナメント進出が決まっていたわけではなかった。セネガルが1-1に追いつけば、日本の目論見は泡と消える。西野監督は、保証されていない未来(未来は、常に保証されていない)に“賭け”たのだ。いくらデータを集めても未来が確定されることはない。偶然が左右しかねない未来に自らを“賭け”たのだ。そして、その“賭け”に勝った。
 
 ロジェ・カイヨワは、その著書『遊び』の中で、“遊び”を4種類に分類した。アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(眩暈)。サッカーの本質は“遊び”であることは、誰もが認めるところである。大半の人は、カイヨワ流に分類すると、サッカーはアゴン(競争)の要素の強い“遊び”だと考えるだろうが、西野監督はそこにアレア(偶然)の要素を前面に出した10分間を選択したのだった。
 素晴らしい。“賭け”に勝ったことではない。自分の力で“賭け”に勝つことはできない。“賭け”とは、偶然に身を任すことだからである。素晴らしいのは、世界で32人しか監督として出場できないプロフェッショナル中のプロフェッショナルの監督である西野氏が、最後の最後に選択したのが、偶然に身を任せることであった、そのことである。
 まさに、サッカーの本質を“遊び”と看破した凄い監督である。

  


Posted by Okuno at 15:57Comments(0)