2018年06月29日

矛盾

 2018年6月29日の未明、午前1時過ぎに床に入った人の大半は、すっきりと心が晴れないままに、もやもやを抱えながら眠りについたはずである。そして、翌朝、いつもよりかなり遅く目が覚めた私が考えたのは、“フェアプレー”と“賭け”の二つのことについてだった。

 “フェアプレー”=ルールを守ること、でないのはルールの変遷を考えればすぐに分かる。例えば、ゴール・キ-パーへのパスを手でキャッチすることの禁止は、それ以前のルールを守ってプレーしていたにもかかわらず、サッカーにとって不適切と考えられるようになりルール化された。ルールに従ってプレーしていても、フェアプレーではない、あるいはサッカーの本質に反すると考えられるようになったからだろう。
 私は、“フェアプレー”とは、サッカーの本質と対戦相手を尊重(リスペクト)することだろうと考える。サッカーの本質とは、『全力で相手ゴールを奪いにいき、必死になって自分のゴールを守る』ことだと思う。このことなしに、そもそもサッカーは成り立たないのは自明のことだ。しかし、このサッカーの本質を、一定の条件下では軽視または無視しても許されるのだというのが、西野ジャパンが一致団結して取った行動の意味するところであった。
 さらに、試合時間の残り10分間、日本代表が戦っていた相手は、その時対戦していたポーランド代表チームではなかった。セネガルまたはコロンビア、またはその両チームとの戦いに神経を集中していた。対戦相手のポーランドをリスペクトし、全力でポーランドに勝つことを目指してプレーしなかったということも、私には“フェアプレー”とは対極の行動だと感じられた。
 “フェアプレー”の精神とは対極のプレーをすることによって、“フェアプレー・ポイント”で上回り、決勝トーナメント進出を手にした。なんという“矛盾”。

 『サッカーには人生のすべてがある』と言ったのは、長い間イギリスのエリザベス女王だと思っていたが、どうやらD・クラマー氏のようだ。人生に“矛盾”は、つきものだ。“矛盾”を拒絶し、“矛盾”と格闘するのが人生の青年期であり、“矛盾”を受け入れるのでないが、“矛盾”とともに生きていくのが大人になることであるなら、日本のサッカーも大人になったと思う。この試合を美化したり、釈明したりすることなく、今後何十年にもわたって、少なくとも苦い思いとともにこの試合を振り返り続けるのが、サッカーを愛する私たちの責務だと思う。

 もう一つ、“賭け”について。日本代表が時間つぶしに出た時、0-1で終われば決勝トーナメント進出が決まっていたわけではなかった。セネガルが1-1に追いつけば、日本の目論見は泡と消える。西野監督は、保証されていない未来(未来は、常に保証されていない)に“賭け”たのだ。いくらデータを集めても未来が確定されることはない。偶然が左右しかねない未来に自らを“賭け”たのだ。そして、その“賭け”に勝った。
 
 ロジェ・カイヨワは、その著書『遊び』の中で、“遊び”を4種類に分類した。アゴン(競争)、アレア(偶然)、ミミクリ(模倣)、イリンクス(眩暈)。サッカーの本質は“遊び”であることは、誰もが認めるところである。大半の人は、カイヨワ流に分類すると、サッカーはアゴン(競争)の要素の強い“遊び”だと考えるだろうが、西野監督はそこにアレア(偶然)の要素を前面に出した10分間を選択したのだった。
 素晴らしい。“賭け”に勝ったことではない。自分の力で“賭け”に勝つことはできない。“賭け”とは、偶然に身を任すことだからである。素晴らしいのは、世界で32人しか監督として出場できないプロフェッショナル中のプロフェッショナルの監督である西野氏が、最後の最後に選択したのが、偶然に身を任せることであった、そのことである。
 まさに、サッカーの本質を“遊び”と看破した凄い監督である。

  


Posted by Okuno at 15:57Comments(0)