2018年07月14日

ナイーブにして無邪気


 ワールドカップも残すところ、3位決定戦と決勝戦の2試合のみとなっている。クロアチアのチャンス・メーカーであるモドリッチの、30歳を超えて、あの走力と献身性は今までの選手像にはなかったものだ。片やフランスのエクバペ、19歳にしてイエローカードも平気の時間稼ぎ。あのヒールなプレーは、サッカーの中だけで身に付いたものなのだろうか。
さて、我が日本代表である。これを考え出すと、頭に血が上ってきてちゃんとした文章にならない。齢を取るにつれて、怒りっぽくなるという。私もその傾向が顕著になり始めているとは自覚している。「しかし、まあ、みなさん、聞いてください」と人生幸朗さん(知ってる人は少なくなってしまったでしょうね)のように言いたくなってくる。
 日本代表選手の帰国を報じるテレビ番組欄に『凱旋』とあった。辞書には、凱旋とは「成功を収めて帰ってくること」とある。4試合戦って、1勝2敗1引き分けの結果が成功か。しかも、1勝は、相手が80分以上10人で戦った試合であった。選手たちが必死になって全力で戦ったのは間違いない。問題は、監督、日本サッカー協会、日本サッカー界の空気である。
 西野監督は、ポーランド戦の翌日、選手たちに負けを受け入れる戦い方を指示したことを詫びたという。なんという、ナイーブさ。なぜ、自分の取った作戦を堂々と誇らなかったのか。閉ざされたミーティングの場だったので、心情を吐露したのか。しかし、その内容は私のような底辺レベルのものまで伝わってきている。しかも、まるで美談でもあるかのように。
 そして、西野監督とともにアトランタ・オリンピックを戦った山本氏は、“絶賛すべき選択”と解説していた。なんという無邪気さ。負けている試合で時間稼ぎをするという、そこには対戦相手とともに全力で勝利を競い合うスポーツマンシップのかけらもないと感じた私はおかしいのか。
その西野監督は、当初からの予定だったので、代表監督を辞めるという。なんやねん。「ベルギー戦に敗れた直後、倒れこんで背中で感じた芝生の感触を忘れるな、控え選手用のベンチの居心地の悪さを4年間覚えておけ。」というようなかっこいいことを選手たちに話したと報じられた。自分は、どうやねん。絶対に本意ではなかったであろう、リードされた試合での時間稼ぎや、試合終了直前でのカウンター・アタックから失点での敗戦、その悔しさを4年間覚えておける監督は、西野さん、あなたしかいないでしょう。いくら予定していたとはいえ、今辞任することは無責任だと思う。「疲れた」と西野氏は話したという。その通りだと思う。私たちには想像もつかない重圧があったであろう。しかし、それはワールドカップを戦うどの監督にも言えることではないだろうか。ドイツのレーブ監督は続けると報じられている。それが責任を取るということであろう。辞めさせられるのならともかく、自分から辞任を言い出すとは、重圧に耐えるだけの精神力が足りなかったと言うことだろう。その辞任を受け入れる田嶋会長もどうかしている。西野監督の継続こそが日本のサッカーが階段を一つ上がるために一番可能性のある道ではないですか。私は、それだけがハリル前監督を辞任させた者の責任の取り方だと思う。
 しかし、その精神力の足りなさは、たぶん、西野氏個人の問題ではない。私たち日本サッカー界、あるいは、日本人全体の特徴であるかもしれない。長谷部キャプテンは、「結果の中に真実はある」と言ったと新聞に出ていた。スポーツにおいて大切なのは、過程ではなかったのか。私はそのように教えられてきたし、そのように選手に伝えてきた。私の指導は間違っていたのか。結果が出れば、その結果だけで物事を判断する。良い結果が出ればそれですべてOK。その過程の検証に耐えようともしない。まるで、日本の近現代史を観るような思いである。私たちの国民性であるのかもしれない。
 クロアチアのダリッチ監督「私たちには、絶対にあきらめない国民性がある」と言ったと新聞記事にあった。その国民性は、どのように育まれてきたのだろうか。誰しもが、1990年代のユーゴスラヴィア内戦を思い浮かべるのではないだろうか。
 私たちは、結果からだけで白黒をはっきりさせようとする国民性があるのかもしれない。白黒両方を併せ持つ、または、白黒の矛盾を意識しながら、あるいは葛藤を自覚しながら抱え持ちながら、前に進んでいく精神性を持ち得ていないのかもしれない。
 サッカー批評には、国民性が表れる。そこに、ナイーブにして無邪気な、我が国民性の脆弱性が表れているような気がしてならない。
 もうすぐ、3位決定戦が始まる。



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