2018年05月14日

ビッグ・バン

5月13日(日)、まだ雨の残る中傘を差し、試合の余韻に浸りながら紀三井寺陸上競技場から駐車場へ歩いている時に、私の心に浮かんできたのは“ビッグ・バン”という言葉だった。

天皇杯県予選決勝戦、アルテリーヴォに1点リードされ試合終了まで5分を切っていたと思う。相手ゴールに向かって左側ペナルティー・エリア角からそんなに遠くない地点で得たフリー・キックをヘディング・シュート。ゴール・キーパーが左に倒れながらなんとか防いだもののルーズ・ボールとなってこぼれたボールをゴール・エリア内から押し込んでゴール。

昼前から雨が強くなる中、クラブの代表として応援にいかなくてはと思い、悪天候のためにやや気持ちが進まないまま(ごめんなさい!)に家を出たが、試合開始直前のスタンドに入った時、自分の目を疑い、一気に気持ちが高ぶって来た。何百人という多くの人が、この雨の中応援に来てくれていたのだ。エスコート・キッズを務めてくれた子どもたちと保護者、大会が中止になったため急きょ応援に来てくれた3・4年生の子どもたちと保護者、練習を終えてから、または練習試合の後、会場に来てくれた小学校高学年の選手やエンジェルスの選手たちとスタッフ、試合に出場する選手の家族や知り合いの方。本当にありがとうございました。トップ・チームの選手たちにはとてつもない力となったことでしょう。

スローモーションを見ているかのように、ゴール・エリアの中で誰の支配も受けずに自由にゆっくり転がっている直径20㎝あまりの球体に一番先に触れたのは、白いアウェーのユニフォームに身を包んだ我が海南FCの選手だった。倒れたまま、なおもゴールを死守すべく伸ばしたゴール・キーパーの左手の指先と、なんの感情も持たずに次の瞬間を見守っているかのように泰然と直立している白いゴール・ポストのわずかな間隔を、自分に最初に触れてくれた選手の意志をそのままに受け入れたボールが通り抜けた、まさにその瞬間に“ビッグ・バン”は起こった。

およそ1,000の瞳が、誰の指示もなく無機質なボールに焦点を合わせる。その視線に込められた思いを喜んで受け入れたかのようにまるで生命体のように自らの意志で白いゴール・ラインを通り過ぎた。その瞬間、両手を突き上げる者、立ち上がり大声を発する者。その場に居合わせた全員が瞬時に“ビッグ・バン”を創出させたのだ。プレーする者と応援する者という関係ではなく、お互いに名前も知らない観戦者という各個人という存在ではなく、ゴールの瞬間の喜びを共有する“場”を、それまでの時の流れとは無関係に、まさに突然に創出させたのだ。
チームのよって立つ基盤、プレーヤーの来歴・社会的地位・家族関係、応援に来てくれた人の抱えているはずの事情、そんな諸々の背景やここに至るまでの個々の経緯を、誰の意志もコントロールもなく瞬時に“無”にし、膨大なエネルギーを瞬時に一斉に放出し、サッカーの喜びの宇宙を創出する“ビッグ・バン”を私たちは共有し、経験することができた。これを至福と言わずなんと言うか。

サッカーの、そして多分スポーツの本当の物凄さは、その瞬間にある。
私は、そのことをある本を読んで知識としては知っていた。
『フットボールの新世紀 美と快楽の身体』(今福龍太 著、廣済堂出版、2001年発行)から紹介する。
- 「結果」ではなく、ましてや「過程」でもなく、私がサッカーで愛したいのは「いま」である。時の流れ、感情の流れ、思考のとどまることなき流れの中で明滅し、閃光を発し、たちまちにして消え去る「現在」という、瞬時の強度に満ちた生々しい「いま」そのものである。「いま」が時の深みを生み出し、プレーヤーの身体的アートに厚みをもたらすという事実への、無私の愛である。-

写真もない、硬い文章になりましたが、たまにはこんなことを考えてみるのも、また、サッカーの楽しみだと思います。



Posted by Okuno at 11:07│Comments(0)
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